後醍醐天皇
Last-modified: 2019-05-15 (水) 15:01:16
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう) †
1288年〜1339年 鎌倉幕府をほろぼして,建武の新政を行った天皇。
【後醍醐天皇】
- 1318年……天皇に即位する。天皇親政の復活を希望し,鎌倉幕府打倒を計画するようになる。
- 1324年……幕府打倒計画が発覚するが,家臣が責任を負い,天皇は処罰されずにすむ。
- 1331年……幕府打倒のために挙兵するが敗北,幕府に捕らえられる。
- 1332年……幕府は後醍醐天皇を
隠岐 に流し,光厳 天皇を即位させる。その後も楠木正成らが幕府に対する抵抗を続ける。
- 1333年……隠岐を脱出して再び挙兵する。北条氏の独裁に不満を持つ御家人の足利尊氏や
新田義貞 を味方につけて鎌倉幕府をほろぼし,京都に帰還する。
- 京都に帰還した後醍醐天皇は自身の退位と光厳天皇の即位を否定する一方で,光厳を上皇としてあつかうことを認めた。のちに後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると,光厳は尊氏を支持している。
- 1334年……年号を建武に改める(この年号をとって,後醍醐天皇の政治を建武の新政という)。公家中心の政策に対して武士や農民の不満が高まる。
- 1335年……足利尊氏が建武の新政から離反する。
- 1336年……京都を占領した足利尊氏と講和して三種の
神器 を引き渡し,尊氏は光明 天皇(光厳天皇の弟)をたてる。まもなく後醍醐天皇は京都を脱出し,尊氏に渡した三種の神器はにせ物であったとして,吉野に朝廷を開く。南朝(吉野の朝廷)と北朝(京都の朝廷)の対立がはじまる。
- 三種の神器……
八咫鏡 ・草薙剣 ・八坂瓊曲玉 の3つの神宝で,皇位の象徴とされている。
- 1338年……新田義貞が戦死するなど,南朝側の苦戦が続く。
- 1339年……吉野で病没する。
【後醍醐天皇の皇子たち】
- 護良(もりよし/もりなが)親王……後醍醐天皇が隠岐に流されている間も幕府と戦い続けた。建武の新政では征夷大将軍に任じられたが,後醍醐や足利尊氏と対立して解任され,足利氏に引き渡された。鎌倉に送られ,ここで殺害されている。
- 後醍醐天皇の皇子の名には「良」の字が共通して使われているが,その読みについては「よし」とする説と「なが」とする説がある。
- 恒良(つねよし/つねなが)親王……建武の新政では皇太子になる。後醍醐天皇が尊氏と和を結んだとき,父から皇位を譲られ,新田義貞らとともに北陸に下向して北朝勢力と戦った。金ヶ崎城(福井県)で捕らえられ,京都に護送された(ここで毒殺されたともいう)。
- 恒良親王は北陸で天皇として活動したとされるが,父の後醍醐が南朝を開いたため,歴代天皇には数えられていない。
- 成良(なりよし/なりなが)親王……建武の新政では鎌倉府将軍になる。尊氏が光明天皇を即位させたとき,その皇太子となるが,まもなく廃されている。兄の恒良親王とともに京都で毒殺されたともいう。
- 義良(のりよし/のりなが)親王……建武の新政では奥州(東北地方)に送られてここを拠点とする。南朝成立後,再び奥州に向かうが,暴風にあって吉野に帰り,皇太子となる。後醍醐天皇の死後即位して後村上天皇になり,北朝との戦いを続けている。
- 懐良(かねよし/かねなが)親王……南朝の征西大将軍として九州に派遣され,ここで勢力を拡大した。明と国交を結び,「良懐」の名で日本国王の地位を授けられている。その後は北朝勢力に圧迫され,筑後矢部にこもってここで亡くなったという。