トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS


徳川家康

Last-modified: 2020-07-06 (月) 21:50:26
Top / 徳川家康

歴史Aランク

徳川家康(とくがわいえやす)

1543年〜1616年 江戸幕府の初代将軍。 三河(みかわ)(愛知県東部)の松平氏に生まれる。織田信長と同盟を結んで勢力を拡大し,信長の死後は豊臣秀吉の全国統一に協力した。関ヶ原の戦いの勝利によって全国を支配する実権をにぎり,征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。

【徳川家康の肖像画】

ieyasu.jpg

【徳川家康】

  • 1535年……岡崎城(岡崎市)を拠点に三河で勢力を強めた松平清康(まつだいらきよやす)(家康の祖父)が,尾張(おわり)(愛知県西部)を支配する織田氏を攻めるが,陣中で家臣に暗殺される。子の広忠(ひろただ)(家康の父)があとをつぐが,親族に岡崎城をうばわれる。
  • 1540年……駿河(するが)(静岡県中部)・遠江(とおとうみ)(静岡県西部)を支配する今川義元(よしもと)の助けを得て,広忠が岡崎城に復帰する。
  • 1543年……広忠の子として岡崎城(岡崎市)に生まれる。幼名は竹千代(たけちよ)
  • 1547年……今川氏に人質として送られるが,途中でさらわれて,織田氏に引き渡される。(織田氏の捕虜になっている間に,織田信長に初めて出会ったともいう。)
  • 1549年……父の広忠が死ぬ(死因については,病死説や暗殺説がある)。捕虜交換によって竹千代は今川氏に引き渡されるが.今川氏の本拠である駿府(すんぷ)(静岡市)に住まわされ,岡崎城は今川氏が派遣する城代が支配した。
  • 1555年……元服(成人)して,松平元信(もとのぶ)と名のる。後に,松平元康(もとやす)に改名する。
  • 1560年……今川氏の武将として織田氏攻撃に参加する。今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に討たれたのを機会に岡崎城に入り,自立の動きを強める。
  • 1562年……信長と同盟を結ぶ。この同盟は信長が死ぬまで続いた。
  • 1563年……義元から授けられた「元」の字を捨てて,家康と改名する。
  • 1566年……三河の一向一揆をしずめて,三河を統一する。名字を松平から徳川に改める。
  • 源氏の一門である得川(えがわ/とくがわ)氏の子孫であるとして徳川に改称した。なお,これは家康個人の改称であって,一族は引き続き松平を名のった。家康の子でも4人しか徳川を名のることは認められていない。
  • 1569年……今川氏から遠江を奪い,翌年浜松城を築いて拠点とする。
  • 1570年……信長を助けて姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を破る。
  • 1572年……武田信玄(しんげん)三方ヶ原(みかたがはら)で戦って敗れる。
  • 甲斐(かい)(山梨県)の戦国大名であった武田信玄は,今川氏から駿河を奪い,さらに遠江・三河に侵攻してきた。三方ヶ原の戦いの後も信玄は三河侵攻を続けたが,途中で病死して武田軍は撤退している。
  • 1575年……信長の援軍を得て,武田勝頼(かつより)(信玄の子)を長篠(ながしの)の戦いで破る。
  • 1582年……信長とともに武田氏をほろぼし,駿河を領国とする。本能寺の変で信長が殺される。事件当時,わずかな家臣とともに堺を訪問していた家康は,伊賀(三重県)の山道を越えて三河に脱出している。
  • 1584年……信長の次男の織田信雄(のぶかつ/のぶお)を助け,小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦いで豊臣秀吉と戦う。信雄が秀吉と単独講和したため,家康も秀吉と講和する。
  • 1586年……秀吉の妹を妻にする。大阪城を訪れ,秀吉に臣従する。
  • 1590年……秀吉の命令で,領地が東海地方から関東地方に移される。江戸を本拠として,開発に力を入れる。
  • 1598年……秀吉が病死する。あとつぎの秀頼はまだ5才であり,家康が豊臣政権内の最高実力者となる。
  • 1599年……大阪城に入り,豊臣政権の政務を担当する。
  • 1600年……上杉氏が豊臣政権に従わないことを理由に会津(福島県)に出征する。この機会に石田三成(みつなり)らが家康打倒の兵をあげるが,関ヶ原の戦いでこれを破り,徳川政権を確立する。
  • 1603年……征夷大将軍になって,江戸に幕府を開く。
  • 1604年……貿易を許可する朱印状の発行をはじめる(朱印船貿易)。
  • 1605年……三男の秀忠(ひでただ)に将軍職を譲ることによって,徳川氏が将軍職を受けづくことを明らかにする。
  • 1607年……江戸から駿府に移るが,その後も大御所として政治の実権を握り続けた。朝鮮通信使と会い,朝鮮との国交を回復する。
  • 1615年……大阪夏の陣で豊臣氏をほろぼす。武家諸法度禁中並公家諸法度を制定する。(武家諸法度は秀忠の名で出されたが,実質的には家康が定めたものと考えられている。)
  • 1616年……駿府で死去。東照大権現(とうしょうだいごんげん)として日光にまつられる。

【家康の子どもたち】

  • 松平信康……長男。織田信長の娘婿となるが,母が今川氏の出身であったことから信長の要求で切腹させられた。
  • 結城(ゆうき)秀康……次男。豊臣秀吉の養子(実質的には人質)となり,秀吉に子が生まれると,結城氏をついだ。のち福井藩の藩主となり,亡くなる前に松平の名字に戻っている。
  • 徳川秀忠……三男。江戸幕府の第2代将軍になる。
  • 松平忠吉(ただよし)……四男。尾張(おわり)藩主になるが,若くして病死する。
  • 武田信吉(のぶよし)……五男。ほろんだ武田氏を継いだ。水戸(みと)藩主になるが,若くして病死する。
  • 松平忠輝(ただてる)……六男。越後高田藩主となるが,後に領地を没収されて流罪になった。家康との対立が原因だったともいわれる。
  • 徳川義直(よしなお)……九男。兄忠吉の死後,尾張藩主となる。義直の血筋を尾張徳川家という。
  • 徳川頼宣(よりのぶ)……十男。兄信吉の死後,水戸藩主になるが,後に駿府藩主さらに紀州藩主に転ずる。頼宣の血筋を紀州徳川家という。なお,秀忠直系の血筋が絶えた後,頼宣の孫が将軍になるが,これが第8代将軍吉宗(よしむね)である。
  • 徳川頼房(よりふさ)……十一男。兄頼宣に代わって水戸藩主となる。頼房の血筋を水戸徳川家という。