応仁の乱
Last-modified: 2019-04-18 (木) 12:28:39
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応仁の乱(おうにんのらん) †
1467年〜1477年 京都を中心に行われた戦乱で,室町幕府の力がおとろえ,戦国時代がはじまるきっかけとなった。 応仁元年から文明9年にかけての戦乱であることから,「応仁・文明の乱」ということもある。
将軍足利義政のあとつぎなどをめぐって,有力な守護大名であった細川氏と山名氏の対立が深まり,京都で戦いがはじまった。戦乱は多くの守護大名をまきこんで11年も続いた。
- 京都は焼け野原となり,将軍の力はすっかりおとろえた。京都から逃れる貴族も多く,地方に文化が広がることにもなった。
- 戦乱は全国に広がり,下剋上の風潮が高まって,日本は戦国の時代になっていった。
【応仁の乱】
- 1464年……男子のなかった第8代将軍足利義政が,弟の
義視 をあとつぎに定める。
- 1465年……義政と妻の日野富子の間に男子の
義尚 が生まれたことから,将軍のあとつぎ争いがはじまる。同時期に管領家の斯波 氏,畠山 氏でもあとつぎ争いがおきていた。彼らは幕府の2大実力者である細川勝元 と山名宗全 をそれぞれ頼り,対立を深めていった。
- 管領家……斯波氏・畠山氏・細川氏のこと。足利氏の一門で,将軍を補佐する管領の地位につくことができた。
- 細川勝元……管領家の細川氏の当主。足利義視・斯波
義敏 ・畠山政長 に味方した。
- 山名宗全……出家前の名は
持豊 。足利義尚・斯波義廉 ・畠山義就 に味方した。
- 細川勝元は山名宗全の娘婿で,もともと2人は協力関係にあった。しかし,宗全が
嘉吉 の乱でほろぼした赤松氏を勝元が再興させたことなどから,両者はきびしく対立するようになっていた。
- 1466年……将軍義政の側近であった伊勢
貞親 らが追放される。これによって将軍の力がさらに弱まり,細川勝元と山名宗全の対立が激しくなる。
- 1467年
- 京都で畠山政長と畠山義就の軍が戦ったことから,応仁の乱がはじまる。はじめは山名方が有利であった。
- 細川勝元が将軍義政と義視,義尚の両方を陣営に迎えることに成功し,本格的な戦いがはじまる。京都における陣地の位置から,細川方を東軍,山名方を西軍とよぶが,戦いは東軍に有利になる。
- 勘合貿易をめぐって細川氏と対立していた大内
政弘 が西軍に加わることによって,戦いが長期化する。
- 義視が東軍から脱走,まもなく西軍に迎え入れられる。(もともとは勝元が義視,宗全が義尚に味方していたのが,ここで入れかわってしまう。)
- 1471年……斯波氏の家臣で西軍で戦っていた
朝倉孝景 が,越前の守護職を条件に東軍に移る。
- 1473年……山名宗全と細川勝元が相次いで病死する。義尚が第9代将軍になる。
- 1474年……細川氏と山名氏の間で
和睦 が成立するが,戦いは続く。
- 1475年……朝倉孝景が越前をほぼ平定する。守護の家臣から一国の支配者になった孝景は,初期の代表的な戦国大名とされる。
- 1477年……大内政弘が兵をひきあげ,京都での戦闘が終わる。 義視が美濃に退去し,応仁の乱がようやく終わる。
応仁の乱後も畠山政長と畠山義就は戦いを続け,1485年には山城国一揆をひきおこしている。