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応仁の乱

Last-modified: 2018-09-04 (火) 12:13:36
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歴史Aランク

応仁の乱(おうにんのらん)

1467年〜1477年 京都を中心に行われた戦乱で,室町幕府の力がおとろえ,戦国時代がはじまるきっかけとなった。 応仁元年から文明9年にかけての戦乱であることから,「応仁・文明の乱」ということもある。

将軍足利義政のあとつぎなどをめぐって,有力な守護大名であった細川氏と山名氏の対立が深まり,京都で戦いがはじまった。戦乱は多くの守護大名をまきこんで11年も続いた。

  • 京都は焼け野原となり,将軍の力はすっかりおとろえた。京都から逃れる貴族も多く,地方に文化が広がることにもなった。
  • 戦乱は全国に広がり,下剋上の風潮が高まって,日本は戦国の時代になっていった。

【応仁の乱】

  • 1464年……男子のなかった第8代将軍足利義政が,弟の義視(よしみ)をあとつぎに定める。
  • 1465年……義政と妻の日野富子の間に男子の義尚(よしひさ)が生まれたことから,将軍のあとつぎ争いがはじまる。同時期に管領家の斯波(しば)氏,畠山(はたけやま)氏でもあとつぎ争いがおきていた。彼らは幕府の2大実力者である細川勝元(かつもと)と山名宗全(そうぜん)をそれぞれ頼り,対立を深めていった。
  • 管領家……斯波氏・畠山氏・細川氏のこと。足利氏の一門で,将軍を補佐する管領の地位につくことができた。
  • 細川勝元……管領家の細川氏の当主。足利義視・斯波義敏(よしとし)・畠山政長(まさなが)に味方した。
  • 山名宗全……出家前の名は持豊(もちとよ)。足利義尚・斯波義廉(よしかど)・畠山義就(よしひろ)に味方した。
  • 細川勝元は山名宗全の娘婿で,もともと2人は協力関係にあった。しかし,宗全が嘉吉(かきつ)の乱でほろぼした赤松氏を勝元が再興させたことなどから,両者はきびしく対立するようになっていた。
  • 1466年……将軍義政の側近であった伊勢貞親(さだちか)らが追放される。これによって,細川勝元と山名宗全の対立がさらに深まる。
  • 1467年
  • 京都で畠山政長と畠山義就の軍が戦ったことから,応仁の乱がはじまる。はじめは山名方が有利であった。
  • 細川勝元が将軍義政と義視,義尚の両方を陣営に迎えることに成功し,本格的な戦いがはじまる。京都における陣地の位置から,細川方を東軍,山名方を西軍とよぶが,戦いは東軍に有利になる。
  • 勘合貿易をめぐって細川氏と対立していた大内政弘(まさひろ)が西軍に加わることによって,戦いが長期化する。
  • 義視が東軍から脱走,まもなく西軍に迎え入れられる。(もともとは勝元が義視,宗全が義尚に味方していたのが,ここで入れかわってしまう。)
  • 1471年……斯波氏の家臣で西軍で戦っていた朝倉孝景(あさくらたかかげ)が,越前の守護職を条件に東軍に移る。
  • 1473年……山名宗全と細川勝元が相次いで病死する。義尚が第9代将軍になる。
  • 1474年……細川氏と山名氏の間で和睦(わぼく)が成立するが,戦いは続く。
  • 1475年……朝倉孝景が越前をほぼ平定する。守護の家臣から一国の支配者になった孝景は,初期の代表的な戦国大名とされる。
  • 1477年……大内政弘が兵をひきあげ,京都での戦闘が終わる。 義視が美濃に退去し,応仁の乱がようやく終わる。

応仁の乱後も畠山政長と畠山義就は戦いを続け,1485年には山城国一揆がおきている。