薩長同盟
Last-modified: 2019-05-21 (火) 15:17:10
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薩長同盟(さっちょうどうめい) †
1866年 薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)が,江戸幕府を倒すために結んだ軍事同盟。 「薩長連合」ともいう。
外国との戦いを経験して
【薩長同盟の内容】
薩長同盟は口頭で結ばれたもので盟約書などはつくられていないが,木戸孝允が坂本龍馬に送った書簡から,次のようなことが決められたことが分かっている。
- 長州藩と幕府の戦いがおきたとき(幕府の2度目の長州攻撃がせまっていた),薩摩藩は京都・大阪に兵を送って,幕府に圧力をかける。
- 戦いが長州藩に有利であっても不利であっても,薩摩藩は長州藩が政治的に復権できるように朝廷工作を行う。
- 薩摩藩主の島津氏と摂関家(藤原氏)の
近衛 家は関係が深く,薩摩藩は近衛家を通じて朝廷に対する政治活動をさかんに行っていた。
- 幕府勢力が朝廷を利用して薩摩藩を妨害するときは,薩摩藩も兵を出して戦う。
- 長州藩の政治的復権が成功したときは,薩摩藩・長州藩は力を合わせて国につくす。
【薩摩藩と長州藩の動き】
長州藩は
- 1862年
- 薩摩藩の最高権力者であった島津
久光 (藩主の父)が江戸に行って幕府に政治改革を求める。江戸からの帰途,横浜付近で行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する生麦 事件がおこる。
- 1863年
- 攘夷を実行するため,長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃する。アメリカ,フランスからきびしい反撃を受ける。
- 生麦事件の解決を求めて鹿児島に来航したイギリス艦隊と薩摩藩が戦う(薩英戦争)。攘夷の不可能を知った薩摩藩は,かえってイギリスに接近する。
- 薩摩藩・会津藩が,京都から長州藩などの尊王攘夷派を追放する(八月十八日の政変)。久光は幕府と有力大名からなる連合政権の確立を目指すが失敗に終わる。公武合体政策がゆきづまるなかで,薩摩藩では若い西郷隆盛や大久保利通らが中心となって倒幕を目指すようになる。
- 1864年
- 長州藩が京都に兵を送るが,薩摩藩・会津藩などと戦って敗北する(禁門の変)。
- イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊が下関砲台を攻撃して占領する。
- 幕府による第一次長州
征討 。西郷隆盛が幕府軍の参謀 となり,戦わずして長州藩を降伏させる。
- 1865年
- 長州藩で高杉
晋作 らがクーデターをおこして実権をにぎる。高杉,木戸孝允らは倒幕のため,藩の軍事力強化に努力する。(この頃から薩摩藩と長州藩は接近し,長州藩は薩摩藩の名義で武器や軍艦を外国から購入している。その仲介となったのが坂本龍馬であった。)
- 1866年
- 倒幕で一致した薩摩藩と長州藩が,坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟を結ぶ。
- 幕府による第二次長州征討。薩摩藩は長州藩攻撃のための出兵を拒否する。幕府側の苦戦が続くなか,将軍徳川
家茂 が急死し,幕府軍が撤兵する。江戸幕府の弱体化がはっきりとする。
- 1867年
- 倒幕派が王政復古の大号令を出し,徳川氏をふくめない新政府を誕生させる。
- 1868年
- 新政府軍と旧幕府軍の間で戊辰戦争がおこる。戦争は新政府軍の勝利に終わる。