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関ヶ原の戦い

Last-modified: 2019-12-23 (月) 12:49:23
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歴史Bランク

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)

1600年 徳川家康の全国支配を決定づけた戦い。 「天下分け目の合戦」ともよばれる。

1598年に豊臣秀吉が死去し,子の秀頼(ひでより)があとをついだが,秀頼はわずか5歳であったため,五大老・五奉行が集団で政治を運営することになった。

  • 五大老……豊臣政権の有力大名であった徳川家康毛利輝元(もうりてるもと)上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)宇喜多秀家(うきたひでいえ)の5人。小早川隆景(こばやかわたかかげ)も1597年に死去するまでは大老の1人であった。
  • 五奉行……秀吉の家臣で,政権の実務を担当した石田三成(いしだみつなり)浅野長政(あさのながまさ)前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)の5人。

関東地方を拠点とする徳川家康が政権内で勢力を強めると,これに不満をもつ石田三成は,他の大名によびかけて家康打倒の兵をあげた。家康を中心とする東軍と三成を中心とする西軍が関ヶ原(岐阜県)で戦ったが,家康が勝利した。なお,東軍と西軍の戦いは関ヶ原以外でも行われたが,いずれも東軍の勝利で終わっている。

  • 東軍……大将は徳川家康。秀吉の家臣だが三成をきらっていた加藤清正(きよまさ),福島正則(まさのり),黒田長政(ながまさ)らは東軍に加わっている。家康は息子の秀忠と軍を二手に分けて江戸から西進したが,秀忠の軍の到着がおくれたため,家康の率いる軍勢だけで関ヶ原で戦った。
  • 加藤清正は九州で西軍と戦い,熊本藩主となった。息子の時代に江戸幕府によって領地を没収されている。
  • 関ヶ原の戦いの主力となった福島正則は毛利氏の領地であった安芸(広島県)の藩主になったが,のちに武家諸法度に違反したとして領地を没収されている。
  • 西軍……名目上の大将は毛利輝元だが,中心になっていたのは石田三成である。参加した大名は多かったがまとまりがなく,関ヶ原の戦いでは戦わないで様子を見る大名や裏切って東軍側につく大名が続出したため,半日ほどで敗れている。
  • 石田三成は関ヶ原から逃走したが,家康に捕らえられて京都で処刑されている。
  • 大阪城にいた毛利輝元は戦わないまま撤退したが,家康の命で領地の大半を失った。このとき,毛利氏に残された領地が江戸時代の長州藩である。

関ヶ原の戦いは豊臣政権内部の争いであったが,戦いの勝利によって徳川家康の全国支配が決定的となり,豊臣秀頼は大阪城を居城とする一大名という立場になった。