南北朝の内乱 の変更点
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[[歴史Cランク]] **南北朝の内乱(なんぼくちょうのないらん) [#l18f4f40] &color(mediumblue){&ruby(ごだいご){後醍醐};天皇が吉野に開いた朝廷(南朝)と,&ruby(あしかがたかうじ){足利尊氏};が京都に立てた朝廷(北朝)が争ったこと。}; 戦いははじめから南朝側が不利であったが,[[室町幕府]]内部の勢力争いもからんで戦いは長期化した。この争乱の間に,各国の守護は勢力を強め,[[守護大名]]に成長していった。 ---- 【南北朝の内乱】 -1246年……&ruby(ごふかくさ){後深草};天皇が即位する。 -1259年……後深草天皇の弟の亀山天皇が即位する。この後,後深草天皇の子孫である&ruby(じみょういんとう){持明院統};と亀山天皇の子孫である&ruby(だいかくじとう){大覚寺統};の間で皇位争いがおこる。(南北朝はこの対立をひきついだもので,北朝が持明院統,南朝が大覚寺統である。) -1318年……後醍醐天皇が即位する。後醍醐天皇は大覚寺統で,次の天皇は後醍醐の兄の子が,その次の天皇は持明院統の皇子がなる予定であった。 -1331年……[[鎌倉幕府]]打倒に失敗した後醍醐天皇が&ruby(おき){隠岐};に流され,持明院統の&ruby(こうごん){光厳};天皇が即位する。 -1333年……鎌倉幕府がほろびる。京都に帰還した後醍醐天皇は光厳天皇の即位自体を否定する(上皇としてあつかうことは認める)。 -1333年……鎌倉幕府がほろびる。京都に帰還した後醍醐天皇は光厳天皇の即位を否定する(上皇としてあつかうことは認める)。 -1334年……後醍醐天皇による[[建武の新政]]がはじまるが,足利尊氏が離反して,2年あまりで失敗に終わる。 -1336年……後醍醐天皇と尊氏が和を結び,光厳天皇の弟の&ruby(こうみょう){光明};天皇が即位する。まもなく後醍醐天皇が京都から脱出して吉野に朝廷を開いたことから,南北朝の内乱が始まる。 -1338年……尊氏が北朝から[[征夷大将軍]]に任じられ,正式に幕府を開く。 -1348年……吉野が陥落し,南朝は&ruby(あのう){賀名生};に移る。 -1350年……尊氏と弟の&ruby(ただよし){直義};の間で内戦がはじまる。 -1351年……尊氏が南朝に降伏する。北朝の天皇が廃され,短期間ながら南北朝が合体する。 -1352年……尊氏が直義を破る。幕府軍が南朝から京都を奪回する。&ruby(ごこうごん){後光厳};天皇が京都で即位し,再び南北朝が対立する。 -1361年……南朝軍が京都を占領するが,短期間で奪回される。この頃から,南朝勢力のおとろえが決定的になる。 -1371年……幕府が南朝勢力の強かった九州に今川&ruby(さだよ){貞世};を派遣し,九州統一を進める。 -1392年……講和が成り立ち,南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に位をゆずる形で南北朝が合体する。将軍の[[足利義満]]は北朝と南朝の天皇を交互に立てると約束していたが,この約束は守られず,北朝(持明院統)が天皇の位を継承した。 明治時代に南朝と北朝のどちらを正統とするかで議論が行われ,1911年に帝国議会が南朝を正統とすることを決議している。