名誉革命 の変更点
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[[歴史Bランク]] **名誉革命(めいよかくめい) [#m3269f86] 1688年〜1689年 &color(mediumblue){イギリスでおこった市民革命で,議会政治が確立することになった。}; 国王と議会の対立が深まるなかで,議会は国王を追放し,オランダから新しい国王を迎えた。新国王は議会の権利を認める「権利の宣言」に署名し,これが「[[権利の章典]]」として公布され,議会中心の政治が確立した。 -「権利の章典」では,国王は議会の同意なしに課税できないことや,議会内での発言の自由などが定められている。 -国王が処刑された[[ピューリタン革命]]に対して,戦乱なく革命が成功したことから,名誉革命とよばれている。 【名誉革命とイギリス】 1660年にチャールズ2世が即位して,イギリスの王政が復活した。王位継承者と見なされたのは弟のヨーク公ジェームズであったが,ジェームズはカトリックであり,ほとんどがプロテスタントである議会と対立した。議会は,ジェームズの即位に反対するホイッグ党(後の自由党)と即位を認めるトーリー党(後の保守党)に分裂した。トーリー党がジェームズの即位を認めようとしたのは,ジェームズにはメアリーとアンの2人の娘がいたがともにプロテスタントであり,ジェームズが即位してもカトリックの王は一代で終わると考えられていたからである。 -1664年……イギリスがオランダの北米植民地であるニューネーデルランドを占領する。中心都市のニューアムステルダムはジェームズの称号ヨーク公にもとづいてニューヨークと改称される。 -1672年……オランダの名門オラニエ家のウィレムがオランダの総督になる(オランダ総督としてはウィレム3世)。ウィレムの母はチャールズ2世の妹,ジェームズの姉であり,ウィレムはイギリスの王位継承権をもっていた。 -1677年……オランダの総督ウィレムとジェームズの娘メアリーが結婚する。メアリーから見るとウィレムは伯母(父の姉)の息子であり,いとこ同士の結婚であった。 -1682年……ホイッグ党のリーダーであるシャフツベリ伯が軍事蜂起に失敗してオランダに亡命する。翌年にはシャフツベリ伯の秘書であった[[ロック]]も亡命している。 -1685年……チャールズ2世が死去し,ジェームズがジェームズ2世として即位する。チャールズ2世の子だが王位継承を認められなかったモンマス公が反乱をおこすが,捕らえられて処刑される。 -1688年 --6月……ジェームズ2世に男児がうまれ,カトリックの王が続く可能性が高まる。この結果,ホイッグ党とトーリー党が反ジェームズ2世でまとまることになり,議会はオランダのウィレムとメアリー夫妻にイギリス上陸を要請する。 --11月……ウィレムがオランダ軍をひきいてイギリスに上陸する。 --12月……ジェームズ2世が議会側に捕らえられる。 -1689年 --1月……ジェームズ2世がフランスに亡命する。 --2月……ウィレムがウイリアム3世,メアリーがメアリー2世として即位する(議会はメアリーの即位を希望していたが,ウィレムも王位を要求したことから,2人が同時に即位することになった)。2人の王は議会の定めた「権利の宣言」に署名するが,これが同年12月に「権利の章典」として発布された。 --3月……王位奪還をめざすジェームズ2世がアイルランドに上陸する。 -1690年……ウィリアム3世がボイン川の戦いでジェームス2世を破る。ジェームズ2世は再び亡命し,ウィリアム3世とメアリー2世の王位が決定的に確立される。 -1694年……メアリー2世が死去し,ウィリアム3世の単独王となる。 -1702年……ウィリアム3世が死去し,メアリー2世の妹のアンが女王となる。 -1707年……イギリス(イングランド)とスコットランドが合同し,グレートブリテン王国が成立する。 -1714年……アンが死去する。成人した子がいなかったことから,ハノーバー選帝侯のゲオルクがジョージ1世として即位する。ドイツ生まれでドイツ育ちのジョージ1世は英語があまり話せなかったこともあり政治には積極的には関わらなかったため,イギリスではさらに議会政治が発展することになった。 -1714年……アンが死去する。成人した子がいなかったことから,血縁のあるドイツのハノーバー選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位する。ドイツ生まれでドイツ育ちのジョージ1世は英語があまり話せなかったこともあり政治には積極的には関わらなかったため,イギリスではさらに議会政治が発展することになった。