応仁の乱 の変更点
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[[歴史Aランク]] **応仁の乱(おうにんのらん) [#pddb31e8] 1467年〜1477年 &color(mediumblue){京都を中心に行われた戦乱で,室町幕府の力がおとろえ,戦国時代がはじまるきっかけとなった。}; 応仁元年から文明9年にかけての戦乱であることから,「応仁・文明の乱」ということもある。 将軍[[足利義政]]のあとつぎなどをめぐって,有力な[[守護大名]]であった細川氏と山名氏の対立が深まり,京都で戦いがはじまった。戦乱は多くの守護大名をまきこんで11年も続いた。 -京都は焼け野原となり,将軍の力はすっかりおとろえた。京都から逃れる貴族も多く,地方に文化が広がることにもなった。 -戦乱は全国に広がり,[[下剋上]]の風潮が高まって,日本は戦国の時代になっていった。 ---- 【応仁の乱】 -1464年……男子のなかった第8代将軍足利義政が,弟の&ruby(よしみ){義視};をあとつぎに定める。 -1465年……義政と妻の日野富子の間に男子の&ruby(よしひさ){義尚};が生まれたことから,将軍のあとつぎ争いがはじまる。同時期に[[管領]]家の&ruby(しば){斯波};氏,&ruby(はたけやま){畠山};氏でもあとつぎ争いがおきていた。彼らは幕府の2大実力者である細川&ruby(かつもと){勝元};と山名&ruby(そうぜん){宗全};をそれぞれ頼り,対立を深めていった。 --管領家……斯波氏・畠山氏・細川氏のこと。足利氏の一門で,将軍を補佐する管領の地位につくことができた。 --細川勝元……管領家の細川氏の当主。足利義視・斯波&ruby(よしとし){義敏};・畠山&ruby(まさなが){政長};に味方した。 --山名宗全……出家前の名は&ruby(もちとよ){持豊};。足利義尚・斯波&ruby(よしかど){義廉};・畠山&ruby(よしひろ){義就};に味方した。 --細川勝元は山名宗全の娘婿で,もともと2人は協力関係にあった。しかし,宗全が&ruby(かきつ){嘉吉};の乱でほろぼした赤松氏を勝元が再興させたことなどから,両者はきびしく対立するようになっていた。 -1466年……将軍義政の側近であった伊勢&ruby(さだちか){貞親};らが追放される。これによって将軍の力がさらに弱まり,細川勝元と山名宗全の対立が激しくなる。 -1467年 --京都で畠山政長と畠山義就の軍が戦ったことから,応仁の乱がはじまる。はじめは山名方が有利であった。 --細川勝元が将軍義政と義視,義尚の両方を陣営に迎えることに成功し,本格的な戦いがはじまる。京都における陣地の位置から,細川方を東軍,山名方を西軍とよぶが,戦いは東軍に有利になる。 --[[勘合貿易]]をめぐって細川氏と対立していた大内&ruby(まさひろ){政弘};が西軍に加わることによって,戦いが長期化する。 --義視が東軍から脱走,まもなく西軍に迎え入れられる。(もともとは勝元が義視,宗全が義尚に味方していたのが,ここで入れかわってしまう。) -1471年……斯波氏の家臣で西軍で戦っていた&ruby(あさくらたかかげ){朝倉孝景};が,越前の守護職を条件に東軍に移る。 -1473年……山名宗全と細川勝元が相次いで病死する。義尚が第9代将軍になる。 -1474年……細川氏と山名氏の間で&ruby(わぼく){和睦};が成立するが,戦いは続く。 -1475年……朝倉孝景が越前をほぼ平定する。守護の家臣から一国の支配者になった孝景は,初期の代表的な[[戦国大名]]とされる。 -1477年……大内政弘が兵をひきあげ,京都での戦闘が終わる。 義視が美濃に退去し,応仁の乱がようやく終わる。 応仁の乱後も畠山政長と畠山義就は戦いを続け,1485年には[[山城国一揆]]がおきている。 応仁の乱後も畠山政長と畠山義就は戦いを続け,1485年には[[山城国一揆]]をひきおこしている。