足利尊氏 の変更点
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[[歴史Aランク]] **足利尊氏(あしかがたかうじ) [#g34f63b6] 1305年〜1358年 &color(mediumblue){室町幕府の初代将軍。}; [[源氏]]の名門に生まれる。[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]であったが,[[後醍醐天皇]]に協力して幕府をほろぼした。[[建武の新政]]に対する不満が高まると,武家政治の復活を目指して挙兵し,京都に新しい天皇を立てた(北朝)。1338年に征夷大将軍に任じられ,京都に幕府([[室町幕府]])を開いたが,その後も内乱状態が続いた。 ---- 【足利尊氏】 -1319年……[[執権]]北条高時から一字をたまわり,足利高氏と名乗る。(後に尊氏と改名するが,高氏も尊氏も読みは同じ「たかうじ」である。) -1331年……鎌倉幕府の命令で出兵し,後醍醐天皇方と戦う。 -1333年……幕府の命令で再び出兵するが,北条氏中心の幕府を見限っていた高氏は天皇方につくことを決意する。 --5月……京都の[[六波羅探題]]を攻めほろぼす。同月,やはり天皇方についた御家人の&ruby(にったよしさだ){新田義貞};らが鎌倉を攻めて,幕府がほろびる。 --8月……武家の中では功績第一位とされ,後醍醐天皇の名,&ruby(たかはる){尊治};から一字をたまわり,高氏から尊氏に改名する。 -1334年……建武の新政がはじまるが,政治の混乱が続く。 -1335年 --8月……北条氏の残党が占領した鎌倉を奪回すると,そのまま鎌倉を本拠とし,武家政権確立の動きをみせる。 --11月……後醍醐天皇が新田義貞に尊氏討伐を命じ,戦いがはじまる。 -1336年 --1月……京都を占領するが,天皇方の反撃によって京都を奪回される。翌月,九州に下る。 --3月……&ruby(たたらはま){多々良浜};の戦いで九州の天皇方を破り,勢力をもりかえす。再び京都に向かう途中,&ruby(こうごん){光厳};上皇から新田義貞追討の命を受ける。(光厳上皇は鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流した後に即位させた天皇で,京都に復帰した後醍醐天皇に即位を否定されたが,上皇としてあつかわれていた。尊氏は光厳上皇の命で戦うという形をとることで,自身を正当化することに成功した。) --3月……&ruby(たたらはま){多々良浜};の戦い(福岡県)で九州の天皇方を破り,勢力をもりかえす。再び京都に向かう途中,&ruby(こうごん){光厳};上皇から新田義貞追討の命を受ける。(光厳上皇は鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流した後に即位させた天皇で,京都に復帰した後醍醐天皇に即位を否定されたが,上皇としてあつかわれていた。尊氏は光厳上皇の命で戦うという形をとることで,自身を正当化することに成功した。) --5月……&ruby(みなとがわ){湊川};の戦いで&ruby(くすのきまさしげ){楠木正成};を敗死させ,翌月には京都を占領する。 --5月……&ruby(みなとがわ){湊川};の戦い(兵庫県)で&ruby(くすのきまさしげ){楠木正成};を敗死させ,翌月には京都を占領する。 --11月……比叡山に逃れていた後醍醐天皇と和議を結び,&ruby(こうみょう){光明};天皇(光厳上皇の弟)を即位させる。同月,政府の基本方針を示す建武式目を定める。 --12月……後醍醐天皇が吉野に脱出し,北朝(京都の朝廷)と南朝(吉野の朝廷)の対立がはじまる。 -1338年……北朝から[[征夷大将軍]]に任命され,京都に幕府を開く。(第三代将軍[[足利義満]]が京都室町に御所をつくったことから,足利氏の幕府は室町幕府とよばれる。) -1342年……天竜寺建設の費用を得るために中国([[元]])に貿易船を派遣する。(天竜寺は1339年に死去した後醍醐天皇の冥福を祈るために足利尊氏・&ruby(ただよし){直義};兄弟が京都に建立した寺院で,1345年に落成している。) -1350年……弟の直義との戦いがはじまる。(設立当初の幕府は軍事や恩賞などを尊氏が,政務や裁判を直義が担当する両頭政治の体制をとっていたが,次第に両者の対立が深まっていた。) -1351年……直義との戦いを優先した尊氏が南朝と和議を結び,一時的に南北朝が統一される。 -1352年 --1月……鎌倉で直義を降伏させる。直義は翌月に急死するが,尊氏の命令で毒殺されたともいう。 --3月……南朝から京都を奪回する。南朝が北朝の3上皇と皇太子を連れ去ったことから,後光厳天皇を即位させ,再び南北朝の対立がはじまる。 --3月……南朝から京都を奪回する。南朝は北朝の3上皇と皇太子を連れ去ったが,後光厳天皇を即位させ,再び南北朝の対立がはじまる。 -1358年……足利&ruby(ただふゆ){直冬};を攻撃する準備中に病死する。(直冬は尊氏の子だが直義の養子となり,直義派として九州や中国地方で活動した。直義の死後も,南朝と協力しながら尊氏と戦っていた。)